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NO.050  2009.08.02

「神が働かれる時」

 

ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ福音書21:21-22)

 

 よみがえられたイエスが弟子達に会われた時のことでした。もう天に挙げられる最後の時が近づいていました。イエスはペテロに「私の羊を飼いなさい」と言われて、自らの働きを託されました。ところがペテロはそばにいた弟子ヨハネのことが急に気になりました。思わずイエスに『主よ。この人はどうですか。』と聞きました。それに対してイエスは「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」とピシャリとペテロに言われたのです。
 しかしこのようなことはペテロだけでなく、私たちの歩みの中でもよく起ります。神を信じていると言いながら、人のことを気にして、神様が喜ぶと言うより、人が喜ぶような行動をとってしまうことはないでしょうか。特に私たち日本人は集団で行動することに慣れ親しんでいるために、一人違った行動を取ることをためらいます。人からもどう見られているかもすごく気になります。しばしば自分の行動の基準を人がどう思うかで決めてしまっている事も多いのです。
 しかし、イエスへの信仰は人を見るのではなく、神を見上げて、神に向かって歩むことなのです。私たちは人の態度によって自らの信仰の有り様を決めるのではなく、自らが神の前に決断し、神に向かって信仰の第一歩を踏み出していくことが求められるのです。
 祖母が導かれたときのことです。高校生で救われた私は家族が救われるように祈り続けていました。神様の恵みにより姉が先ず救われました。姉と私は家で寝ていることの多い祖母を何とか信仰に導きたいと思い、車に乗せて礼拝に連れて行くことにしました。ところがメッセージが始まるとすぐに居眠りが始まるのです。そんなことが続いたとき、私は「おばあちゃんはメッセージを聞いてももうわからないのではないか。」と姉に愚痴を言ってしまいました。それからたまっていた不満が姉に対して出てきたり、祖母に対して苛立ちをぶつけたりしました。
 しかしそんな私に神様は『誰を見て信仰をしているのか。人を救い癒すのは私ではないか。』そう語られたのです。何と私は人を見て信仰をしていたことか。そう思わされ悔い改め、ちょうど癒しの集会の前の晩、私と姉とで祈りました。そうして主だけを見上げて癒しの礼拝に出たのです。しかも一番前の席に座りました。すると招きの祈りの時でした。祖母が泣きながら立ち上がり、イエス様を信じると告白したのでした。それから一ヶ月後祖母は洗礼を受けたのでした。
 そのとき以来、神が問われるのは私たち自身の態度であることを教えられました。人が変わったら、環境が整ったらと言っているのは全て言い訳に過ぎないのです。どんな状況の中でも先ず私たちの神への態度を決めるのです。そうしてそれに向かって踏み出していくのです。そのときに神様は働いてくださいます。「あなたは私に従いなさい。」このイエスの言葉を深く味わってみましょう。事が動く鍵は人にではなく、あなたの中に有ることが分るはずです。

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