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NO.049  2009.07.26

「痩せ我慢」

 

泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 (伝道者の書3:4)

 

 ある牧師先生の言葉が印象に残ったことがあります。その先生は弟さんを亡くし、数年後にお父さんを亡くされた方です。「弟が突然病気でなくなったとき、私は兄として、悲しんではいけないと思いました。私が悲しむと両親も悲しむ。だから悲しむまい、泣くまいと我慢しました。気丈に振る舞うことが信仰的だとも思っていました。ところが、逆に、弟を失ったことがなかなか心の中で処理できず、一年以上も辛い悲しみを引きずってしまいました。それから何年か経って、今度父が亡くなったのですが、この時には父を失った悲しみを正直に表して、感情の思うまま泣きました。すると泣くことによって悲しいことを悲しいとして受け入れることが出来、父の死も受け入れることが早くできました。それ以来牧会生活の中で、辛いことや悲しいことがあったら、それを素直に現していいんですよと兄弟姉妹に伝えるようにしています。悲しみを悲しみとしてしっかり受け入れることで、次の新しいステップに踏み出すことが出来るんだと思います。」
私もこの先生の言葉をよく思い出しては、愛する人を失った人や苦しい試練の中にいる人に関わるようにしています。神を信じて生きるということは痩せ我慢をして生きる事ではありません。聖書は「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。」と言っています。大切な人を失ったときは悲しいし、辛いのです。それが自然な感情であり気持ちです。その時は泣く時であり、嘆く時なのです。悲しみがないかのように、また問題がないかのように,演技したり装ったりする必要はないのです。
イエスキリストご自身、感情豊かな方でした。愛する弟ラザロを失って悲しんでいるマルタとマリヤを見て、同じように涙を流されました。羊飼いのない羊のようにさ迷っている人々を見られた時には深い憐れみを覚えられました。イエスのもとにやってくる子供達を抱きかかえながら、喜びを表現されました。神の計画が分らないペテロに対しては叱責をされました。イエスほど喜怒哀楽の感情が豊かなお方はおられなかったのです。
信仰的に生きるとは、ある問題もないかのように装って我慢して生きる事ではなく、あるがままの状況をしっかりと受け止めて、そこにおられるキリストを認めて、このお方と共に歩もうとすることなのです。
悩みも悲しみも感じない、非人間的な超人になることが信仰深くなることではないのです。あるいは問題も悲しみも試練も困難もない世界を求めることでもないのです。現実に困難や闘いはある。でもそこにキリストがおられる。このキリストを見いだして、このお方に問いながら生きていく。そこに神との深い交わりが生まれていくのです。試練を通さなければ見えてこない神の世界があることを忘れてはならないのです。試練の只中でこそ、神を見いだすのです。

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