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NO.046  2009.07.05

 「最善を尽くす」

 

けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒の働き20:24)

 

 先週金曜日、土曜日と葬儀がございました。亡くなられたのは教会に何度か来られた方のお孫さんでした。14歳という若さで生涯を閉じられたのですが、自死だったため、ご両親を始め周りの方は本当にショックを受けておられます。
 本当に優しく明るい性格だったので、沢山の友達がいました。また、将来は柔道でオリンピックに出場するという夢を持って練習に励んでいたスポーツマンでもありました。葬儀には中学校のお友達や教職員の方々など350名を超える方々が集われ、別れを惜しむ涙が式場を覆いました。
 みんなの心の中には「何故こんなことに。なんで、どうして。」という思いや「もっとこうしてあげれば良かった」と自責の念や悔やむ思いが溢れていて、司式をしながら心が痛みました。人の弱さや脆さを痛切に感じながら、神様の慰めと癒しをお祈りさせていただきました。このことを受け止めるには時間がかかります。願わくはご両親を始めご家族が神様のもとに導かれ、信仰を通して、神様の愛に触れられ救いに導かれるようにと祈るばかりです。どうか兄弟姉妹も覚えてお祈りください。
 このことを通して私たちが再度確認すべき事があります。それは人は皆、死ぬということです。そしてそれはしばしば予告なしにやってくるということです。神の憐れみと恵みによって私たちは生かされていることを忘れてはならないと思わされます。今与えられている家族、仕事、人間関係、それらに対してどれだけ感謝をしているでしょうか。関係が与えられていることを当たり前のように思いますが、それらは全て神の恵みなのです。
 先日、お母様を天に送られた友人の牧師先生からお悔やみ電報のお礼のお葉書をいただきました。その中で先生は「この度のことでは、なくなるとわかっていたら、もっと優しくしてあげられたはずなのにと覚えさせられたことです。突然の死で、全く亡くなるとは思っていませんでした。人には終わりがあるという視点に立たなければ、本当の愛は持てないのだと教えられました」と記されていて、私も考えさせられ、共感させられました。
 確かにもし相手が死ぬと分っていたら、もっと早く和解のことばや赦しの言葉をかけてあげることが出来るはずです。ところがなかなかそれが出来ない。それがわたしたちではないでしょうか。
 愛の実践は言葉ではなく、今できる最善をなすところから始まることを覚えたいと思います。「またいつか、また今度、次の機会に、環境が整ったら」そういっている間にそのチャンスが永久に訪れないこともあるのです。そのときに悔いが残らないようにしたいと願わされます。 パウロは自らの最後を意識して、今日という日を最善に生きました。今日という日に、互いに愛し合い、赦しあい、なすべき神の使命を果たしていく者とさせていただきましょう。主の私たちへの問いかけを無駄にしないようにしようではありませんか。

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