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NO.045  2009.06.28

 「当てになる人」

その主人は彼に言った。
『よくやった。良い忠実なしもべだ。 あなたは、わずかな物に忠実だったから、
私はあなたにたくさんの物を任せよう。 主人の喜びをともに喜んでくれ。』
(マタイの福音書25章21節)

 

 急ですが当教会員の肘井利美兄が、転勤の辞令が出て、実家のある九州福岡に帰られることになりました。本日が共に捧げる最後の礼拝となります。どうか新しい土地での生活が祝福されますよう覚えてお祈りください。
 肘井兄弟が私どもの教会に導かれたのは今から12年前の1997年でした。まだ当時は私たちの教会も開拓2年目で、会堂はなく自宅や会館を借りての礼拝でヤドカリ状態の時でした。しかし、イエス様は確実に兄弟に働かれ、鮮やかな救いを体験されました。その証しに兄弟姉妹達は感動をいたしました。
 以来、教会の家族の一員として教会に仕えて来てくださいました。

兄弟の信仰の姿勢をひと言で表すとするならば「忠実」という言葉がぴったりではないかと思います。
出張で私がいない時にも早朝の祈りを欠かされた事はありません。また教会学校などのご奉仕や聖歌隊、教会役員など陰になって教会の建て上げのために忠実に仕えてくださいました。私は福岡へ帰られるというよりも、神様から福岡へ遣わされると理解しています。主の働きが兄弟を通して益々前進しますよう覚えてお祈りをいたしましょう。
 神様の祝福は忠実な人に注がれます。神の祝福は皆に注がれているのですが、その祝福を受ける受け皿がこの「忠実さ」なのです。「忠実」という受け皿を用意するとそこに神の祝福が蓄積され、溢れるようになってくるのです。穴が開いていたり、器が逆さまになっていたり、立て掛けられたりしていると溜まりようがないのです。
忠実とはどういう事でしょうか。それは第一に「変わらない」ということです。周りの変化や状況によって左右されず、いつも変わらない人が忠実な人だと言えます。
 また、次には「継続されている」ということでもあります。やったりやらなかったりではなく、継続して続いていくことが忠実さです。最初は誰でも良いことは思いつくでしょう。しかし、それを継続することはもっと大変なことです。でも神様に助けを求めて継続しようと励む人に神の祝福は注がれるのです。
 また第三には「犠牲を惜しまない」と言うことが忠実さにつながるようにおもいます。環境が整い、必要が満たされればやるというのでは、条件が整わなければやらないという事にもなります。ですから、忠実な人とは、犠牲を払ってもそれをやりきろうとする人なのです。
 そのような忠実な人は「当てになる人」です。そのような人には仕事の依頼も集まるし、人に信頼され、当てにされるようになるのです。果たして私たちはイエス様から当てにされているでしょうか。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言ってもらえるような忠実さを信仰生活の中で身につけようではありませんか。神の働きはそのような人たちを通して前進していくのです。

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