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NO.040  2009.05.24

 「ミクロとマクロ」

 

また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。
神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。(使徒の働き17:25)

 

 今北海道は春真っ盛りです。先週は札幌にいましたが、ちょうどライラック祭りが大通り公園で開かれていました。甘く優しい香りがいちめんをおおい、心癒される思いをいたしました。自然の営みの豊かさに抱かれると小さいことにこだわっている自分が滑稽に思えるほどです。
 誰かは忘れましたが『ミクロとマクロ』の両方の視点が必要であることをいった人がいました。ミクロ、すなわちそれは目の前のことであり、微細なことを指します。細かいところまで気がつく視点は大切な視点です。しかしそれだけでは視点が限られてしまいます。
 もう一つマクロの視点が必要です。すなわち大きく全体を見渡すことのできる目です。目先だけに捕らわれず、将来にわたって見通すことの出来る人は,目先が多少ぶれても慌てることはありません。起る出来事で一喜一憂することも少ないと言えます。全体を見、将来を見通せる目もまた必要なのです。
 これを信仰生活に置き換えるとするとどうでしょうか。ミクロ的な視点とは、日々の忠実な信仰生活の歩みを指すと言えないでしょうか。日々の祈りの大切さ、聖書に日々触れる生活習慣。力強い信仰とは突然に与えられるものではないのです。日々のこつこつとした歩みが大切です。「ローマは1日にしてならず」なのです。毎日の当たり前の生活の中に神は働かれるのです。
 また同時にマクロ的視点の信仰とは神のご計画の中に導かれていることを信じる信仰と言えるでしょう。全能の神は私たち一人一人をその御計画の内に愛をもって選んでおられるのです。また、天地万物を造られた神は私たちに命を与え、また万物を管理するように委ねておられるのです。
 自分の歩みが見えなくなったり、わからなくなったりしたとき、神の全能の御手の中に抱かれている自分を想像してみましょう。大自然に触れてその懐に身を委ねるのも一計です。神が造られた自然の命に触れるとき私たちの身も心もリフレッシュされるのです。神の大きな愛の御手に捕えられている自分をいつもイメージしながら、神の豊かさに生きるものとなりたいと思います。自然に触れるとその雄大がわかります。それに比較して何と自分は小さいことか。また自然の豊かさに触れることで、自分の乏しくなっている心に気づかされるのです。小さい事にこだわって心を暗くしている自分が見えてくると神への信頼と信仰が回復してくるのです。
 自分の小ささに気づき、神の大きな視点で自分の人生を見ることが出来るようになってくると信仰の豊かさに生きるようになります。このようにミクロとマクロの視点をバランスよく信仰生活の中に持つものとさせていただきましょう。
神様の偉大な計画があなたのために備えられているのです。それを信じましょう。神はそれを実現するためにあらゆる助けを持って私たちを応援してくださるのです。

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