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NO.039  2009.05.17

 「祭りの只中で」

 

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネの福音書7:37-38)

 

 教会の位置する浅草は今、三社祭たけなわです。今日はちょうど最終日です。朝から町内を回る御輿が賑やかに教会の前を通り過ぎていきます。子どもからお年寄りまでハッピを着た人たちが、お囃子に合わせて「ワッショイ、ワッショイ」「セイヤ、セイヤ」「ヨイサ、ヨイサ」とかけ声をかけながら御輿を担いでいます。近所の鉄工所のお兄さんや、ガソリンスタンドのおじさん、サラリーマンの人も、皆、普段の真面目なおとなしい姿とはうって変わって、1年に一度の祭りに興奮し酔っているようです。浅草の人は本当に祭りが好きな人たちだなと思います。
 エルサレムもちょうど祭りがたけなわでした。みなが盛り上がり、祭りも最高潮に達していました。人々は興奮し、あるもの達は酒に酔っていたに違いありません。
 1年に一度の祭りに我を忘れている人もいたでしょう。ちょうどそのときでした。「誰でも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい」とイエスは大声で声をかけられたのです。誰しも満たされているではないかと思われている祭りの中で、一見場違いのような言葉をなぜイエスは発せられたのでしょうか。
 イエスはご存じだったのです。一時的に祭りに興じても心の空虚さや渇きは決して満たされないことを。ですからあえて、祭りの只中で「誰でも渇いているなら私のもとに来て飲みなさい。」と言われたのです。心の渇きは祭りの賑やかさでは癒されないのです。祭りの後の荒れた町並みと同じで、賑やかな祭りであればあるほど、後に残る空虚感が重く感じられるものです。
 しかし、イエスがくださる渇きの癒しはこの世が与えるものとは違います。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とイエスは続けられました。イエスを信じるとき、心の渇きが癒されるだけではありません。心の奥底から活ける水が流れ出るようになると言われたのです。このお方のもとに来るとき、私たちは癒され、生きる活力が与えられ、喜びや生きる意欲がここから溢れてくるようになるのです。
 私たちはこのお祭り好きな浅草に教会が与えられています。そこに神様の御心があることを思う時、「イエスが生ける水を与える」と人々に宣言されたように、私たちも人々に宣言し叫ぶものにさせていただきたいと思います。
 祭りの騒がしさの中で、心が渇いている人がいます。賑やかさの傍らで、一人むなしい思いで飢え渇いている人たちがいるのです。その人達にこそキリストの愛の福音が届けられなければなりません。あなたに与えられているキリストの救いの喜びを溢れさせようではありませんか。この地域に仕えていくことで、私たちに与えられている喜びが永遠のものであり、尽きないものであることをお伝えするものとさせていただきましょう。

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