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NO.038  2009.05.10

 「弱くて大丈夫」

 

しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1:27)

 

 3日から5日まで恵みシャレー軽井沢にてバイブルフェロシップが持たれました。今回は福島第一聖書バプテスト教会の佐藤晃先生がご用をして下さいました。そのメッセージに恵まれ、お互いの兄弟姉妹との交わりに恵まれ、又高原の豊かな自然に恵まれ、主の備えて下さった恵みに感動した3日間でした。
 今回のメッセージは原点シリーズと呼べばよいでしょうか。「人間の原点」「信仰の原点」「教会の原点」「存在の原点(弱くても大丈夫)」と題して語られたメッセージはどれも解りやすく、恵みに富んだものでした。是非参加できなかった方々も聞かれますことをおすすめいたします。又1度聞いた人たちも繰り返し聞かれることをおすすめいたします。
 特に私にとりましては「弱くても大丈夫」というメッセージが心に残りました。私たち日本人は完璧主義なところがあります。何でも完璧にしなければ気が済まない。日本の車ほど細かいところまで配慮され作られた車はありません。携帯にしたって、この機能がどれだけ必要かと思われるほど、機能満載です。如何に正確で精巧であるか。ということを追求している日本の製品は世界に受け入れられています。
 しかし、私たちの生き方までそのようになってくると窮屈でストレスの多い生き方になってしまいます。「日本人ほど自信のない国民はいない」と佐藤先生が言われていましたが、なるほど確かにその通りです。どこまで行っても満足がないのです。自分だけではありません。人に対しても完璧を求める傾向があります。ですから途中の過程はなかなか認められず、評価されにくいのです。ですからどれだけがんばってもまだまだと思うし、人に対してもそう評価をしてしまうのです。そのように私たちは教育され、育てられてきたと言えるでしょう。
 その価値観が信仰にまで入ってくると、一歩間違えれば律法主義に陥ってしまう危険性があります。完璧を求める信仰の姿勢が評価され、途中までとか、70%の達成率は不完全であって十分ではないと切り捨てられるのです。ですからクリスチャンの中にも「ちゃんとしたクリスチャン」でないとだめだと思ってしまうのです。しかし、ちゃんとしたクリスチャンというのはどういう基準で言うのでしょうか。非常に曖昧です。自分で作った基準に自分が縛られて、自分で自分を責めてしまうのです。
 そのような評価や価値観から私たちは解放される必要があります。今を感謝して喜ぶクリスチャンになりたいと思います。10%出来たらそれを喜ぶ。少しでも達成できたことを喜ぶと次が又喜べるようになるのです。神様は私たちを選ばれました。その条件は「弱いから」なのです。「愚かだから」なのです。強いからではなく、知恵があるからではないのです。そこにこそ神の栄光と御業が現されるのです。もし弱い私達が出来たなら、それをさせて下さったのは神様ですから、神様に感謝できるようになるのです。弱さを嘆かないで、むしろそこに神の御業が現されることを大いに喜ぼうではありませんか。
 縮み思考から解放され、大胆で自由闊達な信仰へと主にあって導かれていこうではありませんか。あなたは神様にとって大切な存在なのです。神があなたをそのままで喜ばれていることを喜ぼうではありませんか。

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