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NO.032  2009.03.29

「キリストの足跡にならう」

 

人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません。(ヨハネの福音書15:13)

 

先日ファミリーグループの中で、礼拝メッセージからキリストが受けられた杯について分かち合いました。その中で、私はアメリカ留学から帰国する一ヶ月前に起った航空機事故を思い起こしました。
1982年の1月のことでした。この年は新年からアメリカ中東部は大雪に見舞われ、交通機関が麻痺状態でした。そんなときワシントンナショナル空港を吹雪の中飛び立ったエア・フロリダ90便がポトマック川に架かる橋梁に激突し凍り付いた川に墜落してしまったのです。主翼や胴体に張り付いた氷が十分に除去されず重くなった機体のまま離陸したことが墜落の原因だったようです。乗客79人中74人がなくなり、奇跡的に5人の人たちが救助されました。この救助の模様は夕方の事故だったこともあり、リアルタイムで全米に中継され、私も固唾を飲みながらその救助の模様を見たことを思い出します。
尾翼に捕まり救助を待つ人たちにヘリコプターから命綱が投げ込まれました。一人の男性がその命綱を受けたのですが、彼はそれを翼につかまっている女性に渡しました。その女性は救助され、戻ってきたヘリコプターから再び命綱が彼の元に投げられました。すると彼はもう一人救助を待っている女性にその命綱を渡したのでした。ヘリがその女性を引き上げ再び戻ってきたのですが、この男性は力尽きて水中に沈んでしまい、再び浮かび上がってくることはありませんでした。
その後しばらくして、私は知り合いの牧師からこれには後日談があることを聞きました。この男性の命綱で助かった女性は、彼がクリスチャンであって神の愛に生きていた人であることを知りました。彼女はまだキリストを本当の意味で知っていなかったのですが、彼の行為こそまさにイエスが私たちに示された犠牲の愛と同じであることを知ったのでした。それ以来彼女は教会に導かれ、キリストの救いに預かったというのです。
私はその話を聞いたとき、深い感動を覚えました。もし私がその時その場にいたらどうしたであろうか。どのような行動に出たであろうか。到底彼のような行動はとれないのではないだろうか。様々な思いが去来いたしました。おそらく、私だけでなく誰しも同じような思いをいだかれることでしょう。確信を持って、私は救助を求める人を先に助ける。とは言えないでしょう。また、言ってしまうなら自分を欺くことになるのではないでしょうか。
しかし、聖霊はそのとき私たちに取るべき行動を示し、助けてくださるのだと思うのです。そのために聖霊は私たちの助け手としてそばに来てくださり、私たちを助け共に歩んでくださるのではないでしょうか。十字架を前にして、イエスも受けるべき十字架という杯を、祈りの中で受けられ、神の助けによって十字架を担いきってくださったのです。
あなたも私もこのキリストのみ足の跡に従うように、促されている事を覚えたいと思います。御霊はそんな私たちのために日夜とりなしていてくださるのです。何という神の愛でしょうか。

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