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NO.028  2009.03.01

「慌てふためかない」

ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。
弟子たちはイエスを起こして言った。
「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」 
(マルコの福音書4: 38)

 

テキスト ボックス:   人生には思いがけないことがよく起こります。今、世界を襲っている不況の嵐もその一つでしょう。100年に一度と言われる不況に直面するなどとは予想だにできませんでした。
先日も派遣切りをされた方が相談に来られましたが、やっと就職できたと思っていたのにまた就職活動ですと肩を落としておられました。新しい職場が与えられるようにと共に祈ったことでした。
私たちも人ごとではありません。思いがけない試練に遭遇したとき、どのように対処しているでしょうか。嵐に直面したとき弟子たちは慌てふためきました。いくら汲み出しても入ってくる水に、ついには船が沈むのではないかと思われました。一方イエスはどうかというと、船尾の方で眠っておられたというのです。その姿を見ると弟子たちは苛立ち、イエスを揺り起こして「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」この言葉の中に彼らの心の動揺が見て取れます。
イエスと弟子たち、何と対照的でしょう。嵐の中でも眠ることのできるイエスの中にあった平安に私たちも預かりたいと思います。第1に私たちは何に支配されているかと言うことを考えてみましょう。弟子たちは嵐という現象に支配され、右往左往してしまいました。しかし、イエスは嵐をも静めることができるお方、すなわち神様の権威と支配に全幅の信頼を置いていたのです。確かにイエスは嵐に向かって、「黙れ、静まれ」と命じられると大なぎになったのでした。
困難の中でも、その困難を支配しておられるイエスに信頼をいたしましょう。大きな神の全能の御手私たちの上にあるのです。そのことを信じることができれば、私たちは慌てることはありません。私たちを見守り、支えておられる大きな天のお父様が私たちを導いてくださることを信じようではありませんか。

  第2にイエスと共に歩でいることを忘れないようにしたいものです。沈みそうな船にはイエスも乗っておられたのです。ところが切羽詰まるまで、弟子たちは自分たちで状況を打開しようとしました。そうしてどうにもならない事態になって初めて、イエスに声をかけました。しかもその声のかけ方は苛立ちとイエスへの非難で満ちていました。もっと最初からイエスに声をかけ、イエスの助けを求めることができたはずです。ところが、自分たちの力だけはにっちもさっちもいかなくなってイエスを起こすのでした。ここに私たちの弱さを見ることができます。私たちは最初からイエスと共に人生を歩むことを心がけましょう。あなたの苦しみの現実をイエスも我がこととして受け止めてくださっています。今週もこのお方と共に二人三脚で歩んで参りましょう。何も恐れるものはないのです。
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