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NO.026  2009.02.15

「目の中にある梁」

 

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
・・・まず自分の目から梁を取りのけなさい。
そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイの福音書7:3-5)

 

 あなたはご自分の中にある梁に気づいておられますか。梁とは家を支えている大きな「梁」のことです。それが自分の目の中にあるというのです。聖書は自分の中には「梁」には気づかず、かえって人の目の中にある「塵」にはよく気がつくと言っていますが、まさにその通りです。自分の目の中の梁はあまりに大きすぎて気がつかないのかも知れません。
私たちは人の目の中にある塵、すなわち足りないところや出過ぎているところなど、いろいろなところに気がつきます。よく自分のことは棚に上げてと言いますが、まさに人のあら探しは良くできるものです。
ある牧師先生が、人間には三つの大きな梁があると言われていました。それは「ミエ(見栄)ッパリ」という梁、「ヨク(欲)バリ」という梁、「イジ(意地)ッパリ」という梁です。考えてみれば本当に言い得て妙だと思いました。
私たちは自分をよく見せたいと見栄を張ります。なかなか正直になれずつい自分を大きく見せてしまいます。一度大きく見せてしまうとそれをいつも演じなければならなくなり、苦しくなってしまいます。
また、「欲張り」でもあります。少しでも自分の方が多くないと気が済まない、あれもこれもとついついお金を費やして買ってしまうのです。もっともっとと欲望は限りなく膨張してしまいます。
また「意地」も張ります。先日出張先でお話をしたご夫婦はもう一週間も些細なけんかから会話が途絶えているそうです。お互い相手が謝るまではこちらからは声をかけないといって意地を張っているのです。
この三つとも厄介なのは一度その流れに入り込むとなかなかその流れを断ち切れないことです。つまりゲームをするようになってしまうのです。どこかでゲームすることを止めて自らがプレーヤーであることを止めなければ解決はしません。人を変えることは難しいですが、自分は変えることができます。
人間は欲深く、罪深い存在です。周りとの比較で生きていると本当の自分の姿が見えなくなってしまいます。私たちの基準は聖書です。聖書という鏡をいつも見て、自分の本当の姿に気づかせていただきましょう。聖書の言葉に私たちの人生が照らされてるとき、自分の中にある「梁」に気づかされるのです。思っていた以上に、大きな梁が私たちの本当の姿を見えなくさせているかも知れません。あなたの心を今日も神の御言葉によって照らしていただこうではありませんか。
先ず目の中にある梁に気づかせていただき、主の前に告白し、赦され、正されて生きる者とさせていただきましょう。

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