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NO.019  2008.12.28

19

 「余計なこと」

 

するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と言った。
(使徒の働き26:28)

 

 2008年もいよいよ残すところあとわずかとなりました。この年はいかがでしたでしょうか。また2009年はどのような年にしたいと願われているでしょうか。忙しいさなかではありますが、じっくりと祈りつつ備える者になりましょう。

C:\Documents and Settings\pastor\Local Settings\Temporary Internet Files\Content.IE5\1PWU8FXN\MCj04125720000[1].wmf 私たちは神の時という視点から自らの歩みを整理しつつ、将来を見据え、今を生きる事が大切です。私たちの人生にもやがて終わりが来ます。この世の歩みを終え神の前に立つときが来るのです。そしてその時がいつかは分りませんが、「その時」は着実に近づいているのです。そう考えると、有限な時を私たちは生きているのですから、生き方を整理する必要性があります。   

 もっと人生をシンプルに生きる事はできないか。あれもこれもという生き方を整理して、人生で絶対に外してはならないことは何かを考えて、そのことを中心に人生を設計する。そんなことを考えながら新しい年からの目標や歩む指針をたててみてはどうでしょうか。

 先日、他教会の一人の姉妹とお交わりをする機会がございました。その姉妹は信仰に熱心な方なので、教会でもいろいろなご奉仕をされています。しかし、ご自分が熱心な分、教会の足らないところが目につくようで、何で教会はこんな事もしないんだろうと思われるようでした。「でも、あまり出しゃばるとまた何を言われるか分らないので、何も言わないでこのままにしておこうとおもってしまうんです。」と言われていました。

 私は「もちろん教会にはいろいろな方針ややり方があるので、それを自分の思うように変えることは無理でしょうし、神様もそのことを願ってはおられないでしょう。でも、教会の使命はキリストの福音を伝えるということですから、その方面では積極的にできることがあるのではないでしょうか。」とお伝えいたしました。「でも、牧師に余計なことをするなと言われないでしょうか」「私だったら新しい人に福音が伝えられて教会に導かれてくるのでしたら、どんどんやってくださいと言いますよ。それこそがイエス様が喜ばれることですから。牧師先生もきっとその伝道を喜ばれるはずですよ。誰もやらないのなら、姉妹、あなたがされることですよ。」姉妹は解られたようで共にお祈りをいたしました。

 イエス様はなぜ十字架につけられたのでしょうか。それは「余計なこと」をしたからです。パリサイ人たちにとって、為政者にとってイエスのされたことは全て「余計なこと」だったのです。黙っていればイエスは十字架につけられることもなかったでしょう。騒ぎも起こりませんでした。でも、人々も救われなかったでしょう。神の人類への介入、それはこの世の支配者にとっては余計なことだったのです。でもそれがなければ人々は罪から救われなかったのです。考えてみれば時代を変え、人々を変革していく役割を担っている人たちは、ある人々から見れば余計なことをしていると思われている人たちなのです。しかし、そこから神の新しい時代が始まりました。パウロもアグリッパ王に鎖につながれていながら、キリストを証しすることをはばかりませんでした。アグリッパが脅威を感じたほどです。

 周りの人々を気にするあまり、自分が縮んでしまってはいないでしょうか。泣いても笑っても人生は一度きりです。どうせ生きるなら思いっきり神様のために自分の人生を捧げて生きようではありませんか。新しい年あなたは神様のためにどのような余計なことをされますか?

 

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