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NO.004  2008.09.18

 私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、
私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
(ヘブル人への手紙12:1)

 

 道を歩いていてガムが靴底にくっついてしまったことがありました。しかもべっとりとくっついてなかなかとれません。おまけに取ったガムがズボンの裾にまでくっついてしまって閉口したことがありました。「一体誰がこんなところにガムを捨てたんだ!」と腹を立ててもそれでガムがとれるはずもありません。帰宅後、氷で冷やせばとれるというのでやってみましたが、ズボンの汚れは完全にとれるまでにはかなりの時間を要しました。何かその一日はすっきりしない一日となってしまいました。皆さんも同じような経験をされたことがあるかもしれません。

 

 しかし、考えてみれば私たちの信仰生活にも同じようなことが起こることに気づかされます。神様を信じて歩んでいる信仰生活に、その邪魔をするようなことが起こってくるのです。特別大きな試練や問題という形で私たちの信仰が試みられると、意外とそんなときは急に信仰に熱心になったりするのです。

 

 それよりもむしろ日常生活の些細なことの中に、信仰の熱意を冷ますようなことがおこるのです。そして、それが続くと結構ダメージとなったりします。いわゆる「捨てられたガムを踏んでしまう」ことが起こるのです。

 

人の言葉で気を腐らせるということもあるかもしれません。教会に行こうとすると様々な用事を頼まれたり、仕事の予定が入ったりするということかもしれません。そうこうする内にいつの間にか教会への足が遠のくと言うことも起こりうるでしょう。あるいは教会の中で気の合わない人と出くわすということもあるかもしれません。

 

闇の力の支配者であるサタンは巧妙です。私たちがサタンの誘惑と感じないように、わからないように、私たちの心の中に忍び込み信仰の恵みを奪いとっていくのです。まさに聖書が言うように 「まつわりつく罪」 があるのです。ガムのようにべたべたと私たちの生活にまつわりついてくるのです。

 

 そのようなときに、どうすればよいでしょうか。私はよく自問自答をします。自分で自分に問いかける、癖をつけると意外と脱出しやすくなるようです。「何で自分は今こんなに心が騒いでいるのだろう?」「何で自分の心は不安なのだろう?」などと、自分で自分を見つめるようにしています。すると、その原因が、人の言葉か、置かれている状況か、過去の傷か、と把握できるようになります。すると客観的に自分が見つめられるようになってきて「それは神様にゆだねよう」とか、「神の助けが必要だ」と言う信仰的な思いになってくるのです。そうして神様の助けの必要を覚えて祈りへと導かれるのです。

 あなたにまつわりつく様々な罪への誘惑や、否定的な感情。それは特別なものではなく、どの信仰者にもやってくるのです。そのときに、その事態を引きずらないように神様に助けを求めて祈るようにいたしましょう。祈りはあなたに冷静な判断力を与え、客観的に問題を見る目を培ってくれるのです。

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