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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.299 2023.03.26

■黙想エッセイ

 

どのスポーツでも、試合中の誤審についての議論は避けることはできません。審判も人間であるため間違うことがあり、見る角度や観点によって判断が異なることもあるからです。しかし、誤審によって損をしたことが明らかであれば、その判定は受け入れがたいものです。ですから、強く抗議しますが、その決定が覆されることはほとんどありません。それも当然で、一方の抗議によって判定がすぐに覆されるなら、そのような事例が増え、審判の権威も落ち、競技の持続が不可能になってしまうからです。そのため、「誤審も競技の一部」と考え、できるだけ競技に集中するようにと専門家たちは助言します。
人生においても誤審は避けられません。私が属する組織や知人たちが私について誤審することがあります。つらいのは、その誤審がほとんど正されないことです。
そのような中で、私たちは腹を立てたり不満を言ったりする代わりに、その経験を成長するチャンスとしなければなりません。すべてを知っておられ、公平にさばかれる神様が、私たちを導いてくださることを期待するのです。様々な誤審を正そうとするより、自分を襲った試練を信仰によって通過することができるように神様の恵みを求めて祈りましょう。人生の誤審があったとしても、神様は私たちを勝利者としてくださることでしょう。

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