■証し
人混みに流されて大切な愛が分からなくなっていた私に、神様は本当に大切なものを教え、私を立ち返らせてくださいました。
この年末年始に実家で甥っ子も一緒に楽しい日々を過ごしていました。姉が出かける時に私が代わりに見ることが何度かあったからか、以前から甥っ子は私のことを慕ってくれていて、私には一番お気に入りの車のおもちゃを貸してくれて自分は他の車のおもちゃを持って遊んでいました。母親がこんな風に私を慕ってくれる大人の男の人が現れるといいのにというようなことをつぶやき、また私は人間関係で努力し葛藤しているなか、以前から両親の仲が良くなることを私が願っていることを知っていると言いつつ努力もせず変わらないことなどにも、怒りや失望を感じ悪夢を見るほどでした。年始に姉の入院が引き金となって私はとうとう家族の前で母親をさばいてしまいました。その直後に甥っ子が『みんなひどい!』と言って、私に車のおもちゃを見せて『どっちが良いか聞いて』といい、聞いたら『こっち』と言って私にずっと貸してくれていた方を取りました。その後に会った時、甥っ子は泣きそうな顔をしながらその車のおもちゃを私に貸してくれなくなって、私も泣きそうになってそのまま東京に戻りました。電車の中で、私はずっと涙が止まりませんでした。私が今まで愛だと思っていた感情的なものは薄っぺらかったような、心から大切にされていると実感した時に深い愛が生み出されるような気がしたのと、自分のことでいっぱいで人々をさばいて大切なものを失ってしまったような後悔や至らない気持ちなど、言葉にならない思いでいっぱいになったからです。しかし、その後も甥っ子はまた変わらず私を慕ってくれました。
この出来事を通して、本当に大切なことをたくさん教えられました。自分の欲求を押しつけるのではなく、自分を犠牲にして抑えてでも自分が大切にしている物を与えるほど相手を大切にする時、しかも喜んで望んでそうしていることが分かった時、深い愛が伝わると身にしみて感じました。そう思ったら、命を捨てるほどの神様の愛、十字架の愛の深さを初めて知りました。これより大きな愛はないと。そして優先すべきは薄っぺらなものよりこの深い愛だと思いました。また、大切な人からさばかれるから誰のこともさばくことはできず、さばきは神様に任せるしかないということも思い知らされました。その後、人をさばかないと自分のこともさばかなくて済むようになって楽なことを知りました。また、どんなに罪をおかしても神様は赦して変わらずに愛してくださるということも分かるようにさせてくださり、私もそのように人を赦したいと思わされました。一番大事と思える十字架の愛や、これらの大切なことを、ノンクリスチャンの3歳児を通して教えられたので、神様が用いられない人はいないと感じました(高橋 玲)
人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(ヨハネ15:13)
さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7:1)
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神 の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)