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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.288 2023.01.08

■ 証し

 

私は子供のころおとなしい性格で、人からの主張に対し自分の気持ちや意見を表現できないところがありました。それは親の考えの一方的押し付けに対しても同様で、勉強、受験校の希望も自分から意見する事なく言われるまま受け入れ、次第に抑圧された感覚を持つようになりました。それで私は親元を避けて地方大学へ受験入学しました。しかし元々逃避が動機のため、勉学には目的なく、卒論も書けず就職活動も迷うだけになりました。最後は逃げるように卒業、親元へ戻り、父の口利きで父の友人の会社に入ることになりました。しかし将来が見えず飛び降り自殺も企てました。結局それもできず会社に通い、休みの日は救いを求めヨガ、森田療法などに取り組みました。そんな中、母の何気ない勧めである教会を訪ねました。そこで、同年代の友が声をかけてくれ、食事など楽しい誘いかけが続く中、安心感が生まれました。このような仲間とずっと一緒にいたいと思えることを契機に、イエス様を信じ洗礼を受けました。
このことはその後の交わりで、イエス様の復活と救いを知る喜びに繋がりました。信仰が中心の友情に安心を得、そこから仕事などの面でも、希望を持てる生活に変わりました。
そして、もう一つ変えられることがありました。洗礼後、暫くは自分の罪深さを深く理解せず、悔い改めも自覚の薄いものでした。しかし、転職をして福祉の作業所に勤務した時、主からの試みを経験しました。自信満々となり、恋愛感情から女性の同僚に、支援の自説を押し付けたのがきっかけで会議で対立し、職場環境を乱すことになりました。そして、それは正しい信仰があるから自分は間違いないという歪んだ心を持った原因故からのことでした。その後退職し、別の福祉団体で管理職になった時、自分のミスから責任を追及される場を設けられ、全員からその過ちを問い詰められることが起きました。反論できず他にも指摘が続き、その時、前の職場で自分がした事、それは相手に対し同じ思いを抱かせる責めとして、今自分が受けていると思えたのです。過去人を責め、人に傷を残したことを悔い改めました。しかしそれは、同時に十字架の贖いをされたイエス様の赦しをいただくことでの、重荷を主に委ねられる感謝へと変わる事でした。
今はいくつか教会転籍の後、ホープチャペルに落ち着けたところです。西田先生から勧められ、現在は弟子学校でイエス様を覚えることに心を向ける学びをしています。そこでは、聖霊が私達を罪に陥らせないように生きて心に働く助け主として、日常に身近なものにもなりました。共に学ぶことで得た恵みと、西田先生や立美先生、兄弟姉妹に感謝しています。これまで主を信じるに至った経験は、得られることこそが奇跡でした。イエス様の十字架上の死が、人を赦しなさいという戒めを守る力を与えてくれていることにより、従順に取り組み続けられる平安を得ています。(小沼敦史)

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