■黙想エッセイ
神様の御前に出なければ耐えられないほど霊的に飢え渇いてはじめて、私たちは御霊が望まれる祈りをささげられるようになります。主の御霊が私たちの心に渇きを与えて神様の御前に導かれるのです。しかし、私たちの祈りは、せいぜい、「主よ、今回のビジネスでは会社をどこに建てましょうか。商売の品は衣類がいいですか、食品がいいですか」という程度のものです。
祈りの究極的な目標は、神様がどのような方であり、どのような力を持っておられ、私たちに対してどのような目的を持っておられるかを知ることです。ですから、御霊は私たちにこのような祈りをするよう導かれます。「父よ、私は何もできません。私をあわれんでください。 この罪人が主の御前にひれ伏します。」
世の基準では不足のない人でも、神様の御前では貧しく無力な者にすぎません。
私たちは、神様ご自身に対する関心を持たず、生活の問題のことだけを祈る「御国の証券取引所」を作り出してはいないでしょうか。神様は、そんな私たちの祈りを変えていかれます。貧しさや困難の中でも神様にある豊かさと栄光を見つめることこそ、私たちが持つべき祈りの態度なのです。