■黙想エッセイ
母がイエス様を信じる前のことです。ある日、母がお寺に行って戻って来ると、「今日からおまえの名前はOOOだよ。そうすれば、わが家は安泰だそうだ」と言いました。それで突然、私の名前はOOOになりました。しかし、真理に基づいていない名前には力がありません。名前を変えても事情は良くならず、私の名前は再びもとに戻りました。古代中東では、人名に意味を付与してその名にふさわしく生きるか、その名の否定的な側面を克服して生きていくようにと願いを込めたりしました。
聖書でも、地名や人名に特別な事情や出来事が起こったとき、 新たな名が付けられたり、変えられたりしています。また、神様が一人の人間に特別な摂理を現されるときに、既存の名に替えて新しい名を与えられたりしました。それで、アブラムがアブラハムに、サライがサラに、シモンがペテロに変わりました。
私たちの人生の旅、信仰の旅を「名前」の観点から見るなら、私たちは、ある一つの名前から別の新しい意味のある名前を見出すための探求のプロセスだと言うことができます。
私たちは人に呼ばれていた「私」から、なりたかった「私」へ、そして神様が呼んでくださる
「私」へと移っていかなければなりません。神様が呼んでくださる 「私」の名は、自分の中に潜在している自分です。神様が呼んでくださる「私」の名こそ、真の「私」 なのです。