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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.073   2018.11.18

■根本めぐみ

 

今年3月の「癒やしのミニストリー」に参加させていただいた事は私にとって本当に大きな恵みでした。最初のミニストリーでは,Aさんに対する些細な事を取り上げました。手放し易い小さな怒りだと思っていましたので,小さな袋を用意して導きに従い「小さな怒り」を袋に詰めはじめました。
すると、頭の上から錆びついたような塊がたくさん落ちてきました。私は、びっくりして落ちてきた錆びついた塊を懸命に拾い集めました。この錆びついた塊は私のAさんに対する過去の怒りである事も示され、こんなにあったのかと本当に驚きました。
全てを拾い集めると最初に私が用意した小さな袋では足りなくなり、とても大きな袋になってしまいました。手に持ちきれず背中に背負いながら、イエスさまにどうやって渡そうかと思っていましたら、その袋より更に更に大きなイエス様の手が表れて怒りの大袋を持ち去って下さいました。
Aさんは悪気はないのですが時折、言葉に棘のある方で、「自分が気にしなければ良いだけ」とやり過ごし、それが大人の対応だと思っていました。ところが、私の器はそれができる程大きくなく、その些細な事も消化しきれずに心の錆と化し、積り重なりいつの間にか大きくなってイエス様を遠ざけていたのだと教えられました。イエス様が表れ、錆びついた怒りを持っていってくださった事に感謝し喜びが溢れました。
その気づきも大きかったのですが、Aさんの祝福を祈り終えた後、私の腰から痛みが抜けたのです!痛みが塊となって体から抜けていくのがわかりました。ミニストリー初日、腰に痛みを感じていましたが、いつもの事でしたので気にもせずミニストリーに参加していました。特に腰痛について祈ったわけでもないのに、怒りを手放した事で心も体も癒やされたのです。
午後の時間では、示された出来事がありミニストリーを受けました。これは私が小学生のときの事で怒りの感情はないだろうと思いましたが、イエス様が言われるならとミニストリーを受けましたら、途中から涙が止まらなくなってしまいました。小さい頃よりあまり感情を出さない子でしたから、この時「当時ですら泣かなかったのに・・・。本当は自分は辛かったんだな」と小学生の頃の自分の感情をこの時受止め手放すことが出来ました。
他にも恵みが与えられこの日は嬉しくて、嬉しくて、なかなか寝付けませんでした。主を喜ぶ事の喜びを噛み締めながら感謝が溢れました。「主を喜ぼう」という意思ではなく、喜びがお腹の底から湧き上がってくる様な感覚はかけがえがなく幸福な事だと感じました。
「わたしは主、あなたをいやす者である」(出エジプト15:26)
み言葉を深く胸に刻む素晴らしい時に心から感謝いたします。(根本めぐみ)

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