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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.039   2018.03.27

■申福姫

 

今回、証を書いてみて、これまでいただいた主の恵みがどれほど大きいものものであったのかに改めて気づかされました。私は主に出会い、世の中をみる観点が変わり、価値観が変わり、人生が変わりました。また、言葉では表しきれないほど偉大な主の愛を受けてきました。その愛によって取るに足らない私は悔い改め、新しい人生を歩ませていただいています。時には、このような奇蹟を私一人だけが受けているかのように思われたりもしますが、イエスキリストに出会ったすべての兄弟姉妹がその恵みや聖霊の力によって多くの変化を体験してきたのだろうと思っています。
主からいただいた恵みの中で、私は特に「主の御名によって祈る恵み」に深く感謝しています。なぜなら、これまでは祈りたいと思った時々に祈ることができ、毎朝、祈りから一日がはじまっていたからです。ところが、2017年の秋ごろから、なぜかその祈りの生活ができなくなりました。聖書を読もうとするとすぐに疲れに襲われたり、記憶力も急激に落ちていくのを感じました。疲れた時、苦しい時、いつもなら「主よ。今、辛いです。助けてください。」と交わしていた主との対話も途絶えてしまいました。肉体の疲れですぐ眠くなり、朝起きてかけていた讃美歌も次第に聴かなくなりました。いつしか私の祈りは、「主よ。今日もこのように朝を迎えました。しかし、神様のもとへ早く行きたい気持ちだけです。私をあなたのもとへ連れて行ってください。本当に苦しいです…」という弱々しいものへと変わってしまいました。祈らなくちゃ、と思い目を閉じると雑念が入ってきて、やらなければいけないことが思い出されたり、メールが気になったりしました。また、祈り終えたのに「主の御名によってお祈りします。」を言い忘れたような気がして、祈り直すことも多々ありました。
聖霊に満ちた喜びと平安を取り戻したいという思いで聖書を読み、説教メッセージを聴き、また、祈ってもこれまでのような深い恵みの中に入ることはできなくなっていたのです。「牧師先生にも安息年というものがあるというから、これはもしかしたら私にも少し休めということかな」という傲慢な思いさえ湧き上がってきました。そのような状況があまりにも辛かったので、私は春になったら韓国の断食祈祷院に行こうと決心しました。そんな中、西田先生が1月に3日間、断食祈祷会があるという話をされました。それを聞いた途端、「これは私のために主が用意してくださったものだ!」という確信が与えられました。
この3日間の祈祷会を通して私は聖霊充満を体験し、再び深い祈りに入ることができました。回復されたのです!ハレルヤ!何より、 断食祈祷を通して、心の奥に宿ろうとしていたサタンの思いに気づき、祈りで打ち破ることができました。今は以前のように、いや、それ以上に祈る時間が喜びと平安で満ち溢れています。この場をお借りして、3日間の断食祈祷会を設けてくださった西田先生やともに祈った兄弟姉妹に感謝を申し上げます。そして、このすべてを成してくださったわが主イエスキリストに栄光を帰します。(申福姫)


「私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。…主がことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。」(詩編116:1-2、12-13)

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