■土方愛基子
私の家庭は、曽祖母の代からのクリスチャンホームで、教会へは母のお腹にいる頃から毎週通っていました。当時、日曜は一週間の中で一番大好きな曜日で、教会の友達と遊んだり、先生と会える事をとても楽しみにして過ごしていました。
小学生の時に、教団のキャンプで、今まで何度も話を聞いていた十字架刑の外面的な痛みを詳しく知る機会があり、私のためにそんな事まで耐え忍んでくださったのか!と、何の疑問を持つ事もなくすぐに受洗を決心し、中学生2年生の時に受洗の恵みにも預かりました。
しかし、成長するにつれ、中学後半から高校生頃、思春期も相成り、好んで通っていた教会学校に苦手意識が出始めました。大学に入る頃には別に夢中になる事が増え、教会へは一応通い続けていましたが、心はあまり神様の方に向いてはおらず、礼拝が終わればすぐに帰宅しどこかへ出かけるという様に、クリスチャンの両親への建前で、出席の義務を果たしているだけでした。
しかし、社会に出た後、色々な事を経験する内に人間関係などで心が疲れ、何をしても満たされず、平安を求めるようになりました。そんな中、戻ってきた場所は、やはり教会でした。今まで、自分の心を許せる拠点というかホームとしていた場所は、部活仲間であったり、大学のサークルだったり、親友であったり、当時お付き合いをしていた彼であったりしましたが、その時、自分のホームはここだ、ここにしようと決心しました。この時、自分の意志で自らはっきり主を選択する事ができてから、本当に救われたと実感する事ができました。
その中で、特に確信に変わった事が2つあります。神様は、試練の時も、悲しみや不安しか見えなくなっている時も、どんな時にも、見捨てる事なく私のすぐ傍にいて、私の些細な事さえも全て見ていてくださること。もう一つは、数々の選択や悩みの時に、みことばや祈りを通して必ず想定する以上の必要を与えてくださることを、今まで以上により深く実感するようになりました。
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。 いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)
「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)
以上のみことばは試練の時に、励ましとして与えられた聖句です。時に、悲しみや苦しみ、悩みや不安に振り回されてしまったり、目の前の事がすぐ気になってしまったりする、私はそんな弱い人間ですが、これからも、神様の方を選択できるよう、神様により頼み生きたいと思います。(土方愛基子)