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◆主と共に生きる◆信徒の証し

NO.029   2018.01.14

■滝澤直広

 

私は牧師家庭に生まれ、小さい頃から主の存在を知っていました。しかし、振り返ると聖書の教えは、躾と結びつき、いつしか私の中で「クリスチャンとしてこうしなければならない」というような律法となっていました。また、当時の実家は伊豆の片田舎にあり、町に一つしかない教会の存在は地域の中でも認識されていました。学校の中でも、私が牧師の子供ということを知らない人はいませんでした。その環境から「私は牧師の子供であり、クリスチャンとして良い子にしなければならない」、「私が良い子にしてなければ、地域の人たちのクリスチャンの見方に悪影響が出で、牧師の両親にも迷惑がかかる。何より、イエス様に対して良くない見方がされてしまう。」というように律法的な考えや、中心にいる私が主を背負っているという歪な信仰生活を形成して行きました。
そして大学に進学し、両親の知る別の教会に通うようになります。しかし、礼拝への参加は義務であり、奉仕への参加は牧師の子供としての責務であるというように捉えていきました。
そして奉仕や良い行いが「情けは人のためならず(自分のためである)」ということわざや、「徳を積む」というものにすり替わって行きました。
そのような歩みの中で1度目の神様との出会いをします。学生中に私は大きな罪を犯しました。その時ほど「さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7:1)」というみことばを体験したことはありませんでした。そして、牧師先生に告白をし、初めて「私の罪のためにイエス様が十字架に掛かり、滅びゆく私を救ってくださった。」と受け止め、理解し、体験して、救いの感謝と罪からの開放、その恵、喜び、そして感謝を実感できました。
それから2つ目の出会いをします。大きな「罪」というものを体験したため、改めて自分の律法主義的な部分に向き合うことになったのです。聖書、そして教会の考え方全て守ることは大変で、主に謝り続ける自分に自信が持てなくなってもいました。「クリスチャンは罪から開放されて自由」と言っていましたが、当時の私にはとてもそのように感じられずに窮屈でした。そんな時、ある集会で「愛」についての講演がありました。そこで偶然にマタイ22章36-40で私と同じ質問をイエス様になげかけている青年がおり、以下のみことばが与えられました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」このみことばと出会った時に、私の絡み合っていたものが全てスッキリ解決し、愛を実践として律法があることを知り、自分の律法主義に気づかされ、開放されました。
3回目の出会いは、さまざまな奉仕に携わり、多忙な日々を送っている時でした。教会の友人と聖書を読み、分かち合いをしている時にマタイの6章と出会いました。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」から始まるこの章により私の考えや、見方が一変しました。「奉仕をする」ということが対神様ではなく、「徳を高めるため」というように変わってしまいっており、目立つものや人に見られるようなものになっていました。誰にも評価されないがとても重要な働きを私が見られず苛立ちながらもこなしている時も主は見ており、報いてくださる。そして、誰にも見られなくとも主の働きをしていくことの、素晴らしさを受け止めて行き、奉仕や働きの姿勢を少しずつ変えていきました。このように、牧師家庭ではありますが、洗礼を受けてから救いや体験を経て、新しく作りかえられている私です。ここに書いていない体験や変革もありますが、まだまだ、未熟な私です。是非これからも東京ホープチャペルで新しく主に作り変えられていきたいです。(滝澤直広)

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